ほんとうに、たいせつなこと。
屋久島の旅行記はおいおい書いていきたい。
とりあえず絶対に残したかったことだけ取り急ぎ。
屋久島に一人で行って、多くのことを感じた。
でも屋久島に行ってなにか明確なものを見つけないとと思って
必死にいろいろぐるぐる考えてたけど
東京に帰ってきた瞬間、ひとつわかったものがあった。
屋久島は、人工物が少ない。
自然に与えられたものを最大限に活かして、生活している。
白谷雲水峡も、縄文杉も、奥岳も。
少ないお店と、ローカルな居酒屋などが点在してるだけで
日中は海と山々が、心を健やかに柔らかくしてくれて
夜は満天の星が、誰をも童心に帰らせて感動をくれる。
自然と人間が、配慮をしながらきちんと共存していて、バランスが出来ている。
常にゆったりとした時間が流れていて、運転手さんがバスを走らせば、道を歩く知り合いにクラクションで挨拶をする。
カフェでは、マスターとお客さんが、やあ久しぶり、元気だったかという会話から始まる。
会いたいときには会えて、
知り合いではなくても何故か気まずい空気や全く関係ないという雰囲気はない。
けれど、きっと出会うひとびとは限られていて、
普段すぐに手に入るものも空輸か運輸で時間が要る。
東京にはたくさんのタイミングやチャンスがあると思う。
手に入るものもたくさんあるし、不自由とはかけ離れた場所だ。
人々は洗練されて、みんな欲望を隠しきれずにギラギラとして、いつも何かに急がされている。
そのおかげで自然がある場所といえば思いつくところ、公園などで、それも隅々まで人の手が行き届いている。
薄目でもこれが大自然だ、とは言えない。
人々はいつもなにかに枯渇していて、誰かと繋がりあいたがったり、そのわりにはすぐ目の前の他人には無関心だ。
けど、東京には夜にとても綺麗な人工の光がロマンチックに光るし、
困れば家にいてもすぐに、又は次の日になんでも手に入る。
どこにでも行けるし、なんでも食べられる。行動さえすれば、経験が半径5メートルのうちにすぐ培える。
どちらがいいのだろう。
これにはきっと、正解はない。
けれど、ひとつだけ分かったのは、本来人間が必要なものは至ってシンプルだということ。
そのシンプルなもので充分事足りるということ。
選択肢が多いと、ひとつに絞るのが難しくなる。もっと、もっとと欲深くなり、それが満たされることはきっとない。
本当に大事で大切なものって、昔から変わらない。
いただきます、ご馳走さまと、身体にいいものを味わいながら、食べさせていただいていることに感謝をする。
会いたい人にはスマホの中で済ませるのではなく、直接顔を見に行く。
テレビで得られる娯楽はきっと自分で探せる。
高いものを買わなくとも、身だしなみは綺麗に整えられる。
文字はそのときの気持ちを表すから、手紙を書く。
常に感謝と謙虚な気持ちを持って、接する人びとに丁寧な気持ちを持つ。
そういう中で、本質的に上質な時間やものを、自分や誰かに与える。
それをみんな小さい頃からわかってるはずなのに、余計なものに溢れてしまってるもんだから、何故かたまに忘れちゃう。
忘れたまま、それが普通になってしまって、いつの間にか心や頭の中から無くなってしまう。
時間にいつも追われていて
人の中身より肩書きや収入を気にして
自分のことさえも見失いがちだ。
世間は女子力、婚活、ネオヒルズ族となんでも名前をつけて
無理にでも優劣をつけたがる。
早く結婚すれば勝ちなのか。
年収1000万以上だと成功なのか。
そもそも勝ちとか成功ってなんだろう。
誰がそれを気にしているんだろう。
誰に認めてもらえれば、正解なのか。
それにゴールはあるのか。
本当に大切なものは至ってシンプル。
それもみんな絶対持っているもの。
それだけでもう充分、充分なのに。
けど、たまにそれらを忘れちゃうから、
そういうときに優しく自分を引き戻してあげられるような、
そして心に余白と余裕を持って、
自分と周りを慈しみ、大切に扱い、
常に何が重要なのかを考えられる人でいつづけたいと思った。
そんな大したことではないかもしれないけど
充分大したことで、とっても大事なことを
この旅で気づかせられた。
自分を大事にしないと、相手も大事にできないと思うから。
そして私は常に周りの人を明るく良い気持ちにさせられるような女性でいたいから。
これからも定期的に自分を大事にする、一人の時間を作っていこうと決めた。